メンバーシップ型?Job型?それともアカウンタビリティ型?  働き方改革、本気で考えないとまずくないですか? (2)

投稿者 aas 日時 2020年8月3日

(ジョブ型編)
本来のジョブ型では、就社でなく「就職」する。Jobの概念が確立されたアメリカなどで一般的に運用されているジョブ型では、会社は担当できる人材を求めるポジションの職務職責(=ジョブ:仕事内容、業績目標、要件スキルや経験等)を明確にし公示、個人はその職務ポジションに応募し、採用され、契約をする。個人が個別の職務(ジョブ)と対等な立場で契約を結ぶ。報酬を含む雇用条件は職務契約毎に決まっており、職務契約によって異なることになる。会社(というより担当職務の責任上長)は即戦力で職務を全うできる人材を採用することが責任になるのと同時に、採用される個人は“私できます”と約束して契約するわけで、職務(ジョブ)を全うする責任が明確に発生する。従って、契約した職務(ジョブ)がなくなったり、職務(ジョブ)を全うすることができなくなると、契約は解除されることになる。同一社内であろうと社外であろうと、職務(ジョブ)の異動(プロモーションも)は本人と職務(ジョブ)の新たな契約に基づくことになる。会社の視点からいうと、職務(ジョブ)が先にありきで、そこにマッチする人材を確保する考え方に基づく。組織に唯一無二の統一労働条件があるわけではなく、ジョブ型の雇用契約には労働条件の交渉も存在する。その中で、個人が鍛えられ、自身のキャリアを自身で考え積み重ねる意識が芽生え、結果として、自己責任意識を持った自立自律した個人が育ちやすくなる。組織に依存のできないのがジョブ型だ。また、ジョブ型企業が増えると雇用に流動性が生まれ、労働市場が確立されてくる。その結果、企業から見るとジョブ、個人視点ではジョブに必要な経験やスキルで報酬水準が決まってくる労働市場価格が生まれ、報酬水準が市場価格で決まるようになる。これが、また個人の自律とキャリア開発意識を磨くことに繋がる。

もうお判りだろう。元来のジョブ型は、新卒一括採用や終身雇用の上では絶対に成立しない。これは良し悪しではなく、無理なのだ。ついでに人事的に書き加えると、職務等級(ジュブグレイド)や職務給という考え方はもちろん、昨今議論されているMBOもOKRも共にジョブ型前提で生まれた考え方であり、大前提として、明確な責任がジョブを担当する個人に課され、個人も明確な職務責任意識を持っている上に成り立つ。それなくしての議論はナンセンスなのだ。

 じゃあ、今の日本のジョブ型議論や無意味なの?というと、私もそうは言わない。私の理解では、今議論されている日本式ジョブ型は、雇用そのものはメンバーシップ型を維持した上で、配置配属や働き方には個人に独立性を持たせることで責任意識も持ってもらい、組織と個人が対等の関係に近づく。評価は当然成果重視となる。そんな雇用形態の模索だと理解している。ただ、簡単ではない。配置には、適所適材を徹底して精査し双方での合意が必要。会社は個人を信用し任せる代わりに厳しく評価し、個人も自身に厳しく律しながら主張することは主張する、そのような緊張感のある関係をメンバーシップの中で作るということだろう。簡単ではないが、それができると、今までにない強い組織ができるだろう。

ただ、この議論の中で間違ってはいけないのは、これは人事制度改革の議論ではないということだ。人事部マターではない。組織と人の関係性、会社と社員の関係性をどう変えるのかという議論だ。成果主義という言葉が台頭した2000年前後「我社には市場価値の付くプロフェッショナルがいない。プロを育てなきゃ」という声をよく聞いた。その都度「終身雇用でなぜ市場価値を気にするのか?そんな人間育ったら、辞めますよ」とよく思ったものだ。ジョブ型にするということは、プロが辞めない、プロが採用できる会社にするということだ。それがどういうことか考えてみる必要があるだろう。会社にその覚悟があるのか。そして、それ以上に覚悟が必要なのは社員側、個人だろう。会社に来て言われたことをやっているだけだと、多分仕事は無くなる。ジョブ型だと世の中の進歩以上に自分が進歩しないと仕事がなくなるのだ。会社が職場や研修を与えてくれるのではなく、自分自身でリスキルし職を取りに行き、自分でキャリアを創り上げることが求められる。本当に、その覚悟があるのか。そういう議論がもっとされるべきだろう。

また、こう書くと「でも日本の場合は労働法が、、、」という方もおられるだろう。そう、“時間管理”ベースの労基法、“雇用保障”の考え方、“不利益変更”等々、現在の労働法ではジョブ型雇用にマッチしない条項は多い。しかし、法律というのは常に実態にあわせて制定されるもので、ビジネスの世界では先行するビジネスに法制度が追い付くという構図が常だ。そういう変革をしようとしているのだという気概と決意をもって望むことが求められる。